読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

日常生活で使える映画慣用句集

日常生活で便利に使える映画の名セリフを紹介していきます。ただし、あまり真面目に読み過ぎないで下さい。

2016年映画感想録~3

人間ドラマ サスペンス

ブログのお題とは離れるけど、引き続きfacebookに書いた今年の映画感想集。
今回は『函館珈琲』『淵に立つ』です。

『函館珈琲』(2016/10/22 記)

イオンシネマ春日部にて鑑賞。
函館の風格あるアトリエ付きアパート翡翠館に、東京からやってきた青年。ガラス職人、テディベア職人、ピンホールカメラマンといったそれぞれに個性的な表現者たちとの交流の中で、抱え込んでいた大きな喪失感からの救済を見出していく。川島雄三貸間あり』などにも通じる共生の場の物語だ。
西尾孔志監督の映画というと前作『キッチンドライブ』前々作『ソウルフラワートレイン』など、ざっくりした描線の太さを感じさせるのが魅力だが。本作は柔らかさ、細やかさが勝り、その点で新境地を感じさせるものとなっている。前二作がリズミカルなデキシーランド・ジャズだとしたら、もう少し弦楽四重奏っぽい感じか。ちょっとした言葉や表情の余韻の中に、登場人物の心と心を丁寧にダブらせながら、世界を紡いでいる感じだ。
だから観る側も目に見える光や動きのみならず、珈琲の匂いや豆をすりつぶす手応え、ガラスを溶かす火の熱、テディベアの手触りなどを丁寧に掬い取りながら、映画の世界を消化していくことになる。この緊張は心地よい。そんな中でときおり主人公の抱えるある種の暴力性みたいなものにハッとさせられるのは、西尾監督らしさか。あと、相変わらず自転車は本当にうまく撮る。
とはいえ、個人的には-例えば-テディベア職人の青年が熊の着ぐるみで化けたとき、そのまま夜の函館にさまよい、車にポンとはねられて、でも熊の厚みで無事でした-みたいな喜劇的な逸脱があった方が好みかな…とも思ったりした。しかしそれはあくまでも好みであり、そういう想像をする心のノリシロみたいなのが出てきたのは、それだけ映画が刺激的だったからかも知れない。語りきらない余白に、観客としての俺の心が入っていったのかも知れない。だとしたら、この映画を観たことは、ひとつの豊かな体験なのだ。
俳優陣では、Azumi が良かった。こういうひとって、こういう顔してるよな-というリアリティを感じた。

『淵に立つ』(2016/11/4 記)

決して巧い映画ではない。
ラスト近く(ぼかして書くけど少しでもネタバレが嫌なひとは読まない方がいいかも)中年男の工場主、若い作業員男性、工場主の妻と娘は、4人で車に乗り、過去の事件の手がかりを求めて田舎に出かける。結局、手がかりは得られない。
妻は人生に完全に絶望しきっており、娘は自分の意思では全く動けない重度の障害がある。
さて、クライマックスはその妻が娘を連れて「とんでもない場所」に立ち、それを見た工場主と作業員が慌てる(という言い方も軽いが)というシチュエーションだ。そこに至るには何をしなきゃいけないかというと、いつの間にか妻が娘を連れて別行動し、工場主と作業員は-充分な時間をとってから-彼女らを追って、発見しなきゃならない。
さあ、どういう風に話を組み立てましょうか。
まず、2対2で引き離さなきゃいけない。ありがちなのは、工場主と作業員がちょっとジュースでも買いに行くってやつね。そして車に戻ってきました。妻と娘がいない。でもここで慌てて探させると、向こうは車椅子の娘と移動している身だから追いつきかねない。だから「トイレにでも行ったのか」と待ちます。待ちましたけど、帰ってこないので探し始めます。見つからないので、だんだん、焦ってきます。そこで、このシチュエーションに…。
でも、それをやっちゃヘタクソでしょ。
だって、ジュースを買いに行くシーンは「2対2で離れました」という意味しか持たないし、車にいないのを確認したけど「トイレか」と待つのはそれだけの意味しかない。車の外で待ってる様子のシーンを撮っても、「待ちました」という意味しかないし、立ち上がっても「そろそろ探しに行くか」という意味しかない。そういう「通り一遍の説明」の連続に観客をつき合わせなきゃいけない。
でも、やるんですよ、この映画。ご丁寧にも「いないですね」「トイレかな」なんてセリフ付きで。
だったらホラ、娘がトイレに行きたいってので作業員に車椅子で降りるのを手伝わせるとかさ、そっから-ジュースを買ってきたのでもいいや-戻ってきた工場主と作業員にそれなりに意味のある会話をさせるとかさ、いろいろ手はあるわけですよ。そうしないと、「二人がジュースを買いに行っていて、妻と娘がいない」というだけで「何かある」と思う観客に「何をボケっと待ってんだ、お前ら」と思わせちゃうわけですからね。
映画はクライマックス以前に、クライマックス直前の流れが大事で、そこが通り一遍になると-誤解を恐れずに言えば-自主映画にありがちなヘタさに陥っちゃうんです。「プロの語り」にはならない。
偉そうなこと言ってすいません。俺だってヘタクソです。しかも、ろくな経歴もありません。ほとんど素人みたいなもんです。
でもヘタクソで素人みたいな人間だからこそ、ひとの映画を観るときは巧さを求める「勝手な観客」になっちゃう。
先にあげた以外にも、この映画はヘタだな-というか、巧くないな-と思う点がいっぱいある。淡々としてるようで、説明過剰だし。
前半は「平和な家庭を怪しげな人物が乱していく」という点で黒沢清クリーピー/偽りの隣人』と共通するんだけど、比べりゃ黒沢さんはなんて巧いことか!-と思う。
でも、そんだけヘタなのに、この映画は観れちゃう。
そこがいいところなんだよな。
長さは感じるけど、そんなに退屈せずに、そこそこの興味を保ちながら観ることができちゃう。
例えば前半は、浅野忠信を見ているだけで映画を観ている気分になれる。この「立ってるだけでどことなく幽霊」な役者の持ち味を活かしてくれているのは、映画を観る上での大きな喜びである。
そんな浅野忠信を軸に、そこそこ面白い話は組み立てられている。
そして浅野忠信が工場主の妻に欲情するポイントが長い髪の毛だというのがよく分かる。その髪を「事件」後、切らせたのは実に正しい。その正しさが、映画として、視覚として、「目」を納得させる。
何よりも、巧いヘタを超えた映像の持続感があって、それは監督の「人間」としての持ち味だと思える。
作り手の匂い、空気、肌触りが、不断に画面に満ち満ちていて、通り一遍の説明でさえ、観客である俺をつき合わせる。これは理屈を超えたもので、俺のこだわる「巧さ」なんてのとは違う次元で、ひとを揺さぶるものだろう。
だから海外で評価されたわけで、「巧くなくてもダイレクトに映画を支える作家性」がアピールしたんだと思う。
そこは-少なくとも俺には-言葉では表現しきれない。だから皆さんにも、この「作家性」を浴びてみては?-と言うしかない。言葉では言い切れない持ち味が備わった「作家」は、羨ましくもある。
ただ、それでも「巧さ」が加わった方が、よりいいんじゃないかな-という、気持ちはあるけどね。